みにくくないあひるのおやこ

うつ病歴9年のシングルマザーがASD(自閉症スペクトラム障害)を持つ子ども達を育てる日常のお話です。

第2子はタイミング法 第3子は自然に

タイミング法(不妊治療)

第2子の妊娠は計画的だった。

 

1人目の子は6年目にしてようやく出来た子だから、嫁ぎ先の両親にとってはこの上ない最上級のもてなし様だった。皆それぞれ手取り足取りの光景を見て、「これではこの子はろくな子にならない。」と思った。「妹弟が必要だ。」その頃第1子は1才半くらい。

 

ところが、なかなか妊娠しない。産婦人科に相談すると、第1子を完全母乳で育てているため、生理の間隔が40日程度あり排卵の時期が分からないという事だった。当時は排卵日のチェッカー等なかったので、しばらく毎日産婦人科に通院した。卵子の大きさや排卵する日を特定するためだ。それに合わせて…。

この後は引用文を参照に。恥ずかしいので。

タイミング法は、排卵日の2日前から排卵日までに性交渉があると妊娠しやすいと言われているため、排卵日を診断して性交のタイミングを合わせる治療です。排卵予定日数日前に経腟超音波検査により、卵巣内の卵胞という卵子が入っている袋の大きさを測定します。卵胞の直径が20ミリくらいになると排卵するといわれているため、これを元に排卵日を推定します。補助的に、尿中の排卵ホルモン(黄体化ホルモン、LH)を検査して、排卵日を正確に予測する方法もあります。【略】一般社団法人日本生殖医学会|一般のみなさまへ - 不妊症Q&A:Q8.不妊症の治療にはどんな方法があり、どのように行うのですか?

それにしても、産婦人科医や看護師は直接的な表現を避けてくれていたとは言え、不妊治療とはなんとも生々しい事を平然と口にする。今思うと恥ずかしい。その時はなんとも感じていなかったのだろうか?

 

私の場合は下記の注射をした。飲み薬はなかったと思う。

hMG/FSH
排卵前の低温期にhMGを注射して、その後に成熟した卵胞をhCG注射によって排卵させる治療法をHMG-HCG療法(ゴナドトロピン療法)といいます。
hMG/FSH製剤は卵巣に直接働きかけて卵胞発育を促します。クロミッド服用で効果が得られない場合に使用します。 ほとんどの症例で排卵をおこすことができます。【中略】

hCGは下垂体から分泌される黄体化ホルモン(LH)と同様の作用を持つ薬剤で、成熟した卵胞に作用して排卵を促すお薬です。投与後おおよそ34〜36時間後に排卵が起こりますのでより正確に排卵時期が特定できます。タイミング療法|不妊治療・体外受精なら大阪の不妊治療専門病院レディースクリニック北浜

お陰様で、1回で成功した。とても珍しい事だと医師と看護師がとても喜んでくれた。

 

その2年後、第3子は自然に妊娠。

「出来たら、次から次へと出来る」と元姑から不足気味に言われた。しかし、後継ぎの為に男の子が欲しかったらしく、元舅は男の子だと分かった途端とても喜んだ。

 

というのも、第1子の性別が「女」だと判った時に「女でもええで。」と言ったのだ。

やっと子ども出来たのに、そんなこと言うなんて!!

 

昭和一桁生まれとは話が合わないと改めて思ったのであった。

不妊症解消。3人の子どもを授かる。

第1子の妊娠・出産

バイオプレート治療とその前から2年間程通っていた整体(カイロプラクティック)のおかげか、妊娠出来た。

 

第1子のを妊娠した時、6週目に胎児の心音が聞こえるまでは、心配で、心配で仕方なかった。トイレに行く度出血していないか不安だった。安定剤を飲みたくなる程ドキドキしていたが、外の空気を吸い、空を眺めたりして、なんとか治めた。

 

その後の経過は順調で、母子手帳を貰った時は嬉しかった。母親学級をきちんと受けて、陣痛から分娩までの流れを表にして、トイレに貼っていた。まるで受験生(笑)いざという時の持ち物やそのリストも用意していた。その中の1つが「バイオプレート」。これを着けると無痛分娩が出来ると謳っていたので、忘れずに。

 

臨月に入って数日、美容院に行った。美容師さんから「もしも破水した時の為に新品のタオルを用意した方が良いよ。」と言われ、その夜、言われたとおりにした。その時、ふと

「今産まれて来ても良いけど、一晩寝かせてね。」という思いを抱いた。脳内に直接話しかけられたように感じた。

 

ゆっくり寝て、その朝早くトイレに行くと破水。早速タオルが役立った。しかも朝4:30頃まで本当に良く寝かせてくれた。聞き分けの良い赤ちゃんだ。

 

分娩中は極めて冷静だった。大きな声を出したら、力が出ないと母親学級で教わったし、自分がパニックになったら怖かったからだ。

 

破水してから、8時間後に無事出産!

一晩は母子が離されるが、次の日からはずっと一緒に。初めての出産時の夜泊まってくれたのは、元夫ではなく元姑だった。今どきのイクメンパパではない。正直寂しかった。

 

 

 

【バイオプレート治療】を見つける

抗不安薬等を多種類飲んでも、根本的には治らない。藁をもすがる思いで、パソコンを開くと偶然、「バイオプレート治療」という広告を見つけた。

(現在の治療についての表現は下記のホームページを参考に。)

https://bioclinic.jp/service/bioplate/

簡単に言うと、歯ぎしり等で奥歯が低くなり、過蓋咬合となる。その結果、顎関節症や自立神経失調症等が現れる。それをマウスピースを用いて、噛み合わせを矯正するという治療だ。

オーバーバイト」とは前歯のかみ合わせの深さのことを言います。 通常でも上あごと下あごの前歯は少しずつ重なりあっています(2mm程度)。 このかみ合わせが深すぎると「ディープバイト」、つまり過蓋咬合となります

https://www.mouthpiece-shibuyakyousei.jp/#

 

f:id:ahiruno-oyako:20190110104027j:image

当時は不妊症にもガンにも効果があると言われていたが、最近検索してみると誇大広告だという訴えがあって、問題になっていたようだ。(下記URL参照)

https://www.nikkei.com/article/DGXNASDG0403K_U4A700C1CC1000/

保険も利かず80万円位かけて、治療する事を決めた。不妊の為というより、自分の精神安定の為に。最後の砦と思い、必死だった。

後々色々意見が出ていたようだが、幸い私には良く効いた。唾液がだらだら出てたのだが、それはホルモンだから、飲み込んだら良いと歯科医師からメールでアドバイスをもらった。

断薬のアドバイスもくれた。錠剤を半分にして飲み、それで落ち着いたら、3分の1にカッターで切るように指導。3分の1にするにはとても手間がかかる。そうしていく内に薬を飲む事が面倒になり、たったこれだけの量でコントロールしていくのが馬鹿らしく思えてきた。

約9ヶ月後に第1子を妊娠出来た。その頃には薬を飲まなくてもやっていける様になっていた。

 

姑と夫の許せない言葉

    姑との確執はよくあることで、同居していようが、別居していようが、100%どこの家庭にもある。婿養子をもらった人でも相当の苦労はある。

    15年間舅、姑と暮らして来て一番傷付いた一言がある。

「男は自分の嫁に子どもが出来ないと、よそに子どもを作るから、◯◯ちゃん(私)も子どもが出来るよう努力しなさい。」

言われた時、とっさに「分かりました。」と返答してしまったが、ひどい事を言われたんだと気付くまで、だいぶ時間がかかった。

 

姑は心配して言ったつもりだろうが、「お前は自分の息子をそんな風に育てたのか!?よそに子どもを作られても仕方ないとでも言いたいのか!?」という怒りが沸々とわいてきた。

 

1週間口をきかなかったら、姑が逆ギレし、

姑:「あんたが黙っていることで、家の中が暗くなる!言いたい事があるなら、言って!」私:「あんたのせいで傷付いたんだよ!」(最大音量)

姑:「私だってあんたに傷付けられたわ!あとそんな大声出したら、近所に聞こえる。笑われちゃう。」

私:「お前のそういう所が嫌いなんだよ!!」

(更に最大音量)

 

この後実家にしばらく帰った。

 

でも結局1週間程帰るのだが、その時はなぜか私が謝るという、何とも納得出来ない展開に。この家では怒った者が悪い。いや、嫁のする事は全て悪いのだ。元夫は完全にマザコンで、かばってくれない。

 

元夫に言われた言葉

    元夫はいわゆる「モラハラ」男。背中の曲がった年老いた母親が不憫で仕方ない。私が若いものだから、余計にそう思うのだろう。

理不尽な事があっても、

「お前は社会性がない。世間知らずだ。だから姑に仕える事は人生の修行だ。」

また、定職を持っていなかった事で、

「お前は寄生虫だ。」 

と言われ続けた。自分の稼いだ金を遣う奴という意味だ。またこの頃実家の父の開く小さな事務職でアルバイトとしていた為、結婚しても尚、親から金をもらっているという意味もある。

 

今から思えばもっと前に離婚するタイミングはいっぱいあった。でも結局結婚から6年後にやっと子どもを授かる事になる。

 

 

3回の流産、不育症

初めての妊娠と流産

 結婚当初、まだ抗不安薬をたくさん飲んでいなかった頃は、妊娠についてあまり深く悩む事はなかった。初めて妊娠したのは結婚後半年してからだった。ところが妊娠が判ってすぐ後に出血し、産婦人科に行ったら、「流産ですね。」とあっけなく告げられた。「流産は珍しくありませんよー。1割位の確率で起こるんで。」そして、血の塊のようなものが入った試験管をスッと出し、「これが先ほど取り出した受精卵(確かこう言ったと思う)です。」その小さな血の塊を自分でも不思議な位冷静に観察した。時間が経ってから、二人の間の子どもになるはずの塊だったんだ!と思い、病院のトイレで泣いた。

 

2回目の流産(不育症)

    次に妊娠したのは、約1年後だった。今回は違う産婦人科医院で診てもらう事にした。前回と同じ事になりないように、縁起を担いだ。当時とにかくイライラして、周りに当たり散らしていた。定期検診のとき、「ちょっと赤ちゃん小さいねー。様子見ましょうね。」と言われて、ますます気持ちが荒れた。そして5ヶ月に入った時に、「心音が聞こえない。もう成長していません。」「人工的に出産させます。機械を着けて子宮口を開きます。」

 

    激痛だった。痛すぎて血圧も下がってしまい、寝込んだ。その晩は入院し、付き添う人もなく、一人で夜を迎えた。不安でたまらなくなり、元夫に安定剤を持ってきて貰うように頼んだ。持ってきてはくれたが、付き添う事はしなかった。

    翌朝はまた機械を着け替える。待合室で待っていると、私の噂話をしていた。昨日の安定剤の事だ。「安定剤を飲むなんて、おかしいんじゃない?」医療に携わる人なのに、理解ないんだ…。と不快だった。

    翌日また内診室に行くと言われ、着いていくと別の部屋に入れられ、目隠しをされて冷たいステンレスの台に寝かされた。何が起こるのか全く分からなかったが、結局私がパニックにならないように黙って人工出産をさせる計画なのだ。痛がっていると、「赤ちゃんが産まれるのよ!!」と看護師の声。成長しない胎児を取り出すのと普通の子を出産するのとは全然違うと思い、腹が立った。励まし方を間違えている。

 

取り出された胎児を見るかと医師に聞かれたが、見たくないと答えた。その方が良いと医師。「水頭症がみられます。見ない方がいいでしょう。」胎児は元夫が火葬場に連れて行き、火葬された。その晩は私の母が側にいてくれたが、本当は元夫に居て欲しかった。二人の間の子がいなくなったのに。辛い時にいつもいてくれない。

 

3回目の流産

    2回目の流産以降、一度夫も私も流産と不育症の原因を調べるため、不妊治療を得意とする遠方の産婦人科に通うことにした。この頃には精神的に相当不安定で、抗不安剤以外にも沢山の薬を精神科クリニックで処方してもらっていた。その中でドグマチールがあった。この産婦人科での血液検査でプロラクチンの値が高くそれが不妊の原因だと。そしてその原因が精神科の薬、特にドグマチールなので、止めなければならないと。

高プロラクチン血症とは、プロラクチンと呼ばれるホルモンが血液中で異常な高値を示す病気のことを指します。脳自体の問題であることもあれば、薬剤が原因となるともあります。プロラクチンは本来出産後の乳汁分泌に関わるホルモンですが、高プロラクチン血症は出産とは関係ないタイミングでの乳汁分泌、月経不順、不妊などの原因になることがあります。                     引用元:Medical Note 

    数回その産婦人科に通い、卵管に水を通したり、風船を用いたり様々な治療をしたが、苦痛でもう嫌気がさした。もう止めようと思っていた矢先、生理が止まらなくなった。

    病院に行き驚いたのは、妊娠反応があったことだ。そして、また流産しかけている。直ちに掻爬(人工中絶)し、子宮外妊娠の否定をしなければならないと。

 

もう子どもを望むのは止めよう。疲れた。

そして、精神的にはズタボロだった。

巡り合わせ

運命の人

    空虚な日々を実家で過ごすようになったが、これで良かったとほっとしていた。住み慣れた所がやはり心地好い。どんな仕事が出来るか?やはり英語を使う事。この田舎なら塾の講師が良いだろう。中学生時代通っていた塾の講師をさせてもらえることになった。また人に物を教えるなら、中途半端ではいけないと思い、教員免許を通信制大学で取る事にした。これがまさか元夫との出会いに影響するとは、この時は知るよしもない。

 

    教育実習に母校の中学校を訪ねた。そこで恩師との再会を果たした。彼女のおかげで英語を好きになった。私のルーツと言える。嬉しい事に、彼女の下実習をさせてもらった。

 

    実習を終えた後、先生から町の国際交流協会に入らないかとのお誘いを受けた。正に「渡りに船」である。英語を生かすチャンスだ。会議の場所で、先生から「ある人」を紹介してもらった。その人が元夫である。

 

    「私この人と結婚するんだな。」と初めて会った時から直感的に思った。彼は10才年上の33才。中学校の英語教師をしている。話も良く合ったし、爽やかな人だったので、すぐに好きになり、出会って3ヶ月で婚約した。

 

    ところが3ヶ月後の結婚式の事を考えると、またいつもの不安感が襲って来た。自分が人前で何かヘマをやらかすのではないか?何か卑猥な事を口走ってしまうのではないか?と馬鹿馬鹿しい考えがよぎり、お色直しを多めに取って、少しでも落ち着く場所を作った。安定剤もその時に飲める。これで乗り切った。薬を飲んでいる事は、母以外内緒にした。

 

    結婚生活は元夫の両親との同居。台所と風呂は共同。でもトイレは別で、洗面所と寝室は古い離れを改装してもらい、二人の部屋はあった。やはり両親との同居は気を遣った。

    何度も不安発作が出て、薬を飲んで治めたが、ある時、救急外来に連れて行ってもらった。もう隠し切れない。精神科のクリニックを紹介してもらい、義父に車で連れて行ってもらった。

 

     10才年上の人と結婚するという事は、義理の両親も自分の両親より10才年上という事に気づいて、後悔した。考えが古過ぎる。「教育勅語」の世代なのだ。結婚したらほとんど誰もが経験する「嫁姑の確執」の辛さを年の差分味わうことになる。 

 

    結婚すると誰もが赤ちゃんを期待する。しかし、抗不安薬を飲んでいると胎児への影響が心配になる。でも、飲まないとやっていけない。この後この事で相当悩むのである。

 

またまた続きます。

ASDの子育ては?と思われるでしょうが、しばしお待ち下さい。

    

 

    

心の病=見えない恐怖

強迫神経症と不安神経症

    高校時代から集団で授業を受けるのが怖くなった。休み時間にトイレに行っても、「漏らすのではないか?」と不安になり、集団の中で息苦しくなり、授業中に保健室に行く事が増えた。また保健室に行く事自体が恥ずかしくて、さぼったこともあった。

    そんな状態を心配し、高校時代の保健体育の先生が相談に乗ってくれた。この先生との出会いはものすごくありがたかった。「自立訓練法」を教えてくれた恩師だ。自立訓練法の本とカセットテープをくれて、リラックスする方法を学んだ。

    自立訓練法は根気良く続け、習得出来た。大学生になると90分の講義を受けることは全く苦にならなかった。

   しかし、下宿先で一人になると、漠然とした不安が大きな波のように私を飲み込んでいった。この不安はその時に初めて味わう感覚というより、小学校2年生位から感じていたそれと良く似ていた。眠る前にものすごく不安になり、「母に絵本を読んでもらったら治るかも?」なんて考えていた。(実際読んでもらっていたか定かではないし、どうやって不安を沈めたかは記憶にない。)

    不安感は風邪や怪我等の様に目に見えない。原因も分からない。とにかく「気が狂ってしまうのではないか?」という事が恐ろしく、この永遠のループから抜け出せなかった。何か食べたら治るかもと思い、よろよろしながら、下宿近くの小さなレストランに這うようにたどり着き、食事を出してもらった。でも食べられない。店の奥さんがひどく心配してくれたのを覚えている。そして近くの診療所を教えてくれ、ようやく故郷を離れた場所で、医療機関と繋がった。

 

精神科の受診と服薬の開始

    結局、診療所から総合病院の精神科に紹介されて、投薬治療を始めた。医師からは「人間関係でストレスを感じ易い」と言われ「お酒を飲み過ぎたり、疲れ過ぎると不安になる」と指導を受けた。どんな薬を飲んでいたかは不明だが、何らかの抗不安薬と三角形の錠剤だったのは覚えている。

 

大学卒業と就職の失敗

    通院は在学中も続けながら、専攻の英語とESSの活動に打ち込んでこられた。何度か不安発作を起こし、両親に来てもらったこともあった。またトイレのない、窓の開かない特急電車に乗ると不安発作に襲われ、普通列車しか乗れないようになってしまった。

    就職活動は人並みにし、ある企業から内定をもらった。しかし、新入社員研修があまりに軍隊式で厳しく、私には耐えられなかった。実際男子が一人発狂したようで、彼も研修半ばに去って行った。私も挫折感と安心感を抱いて、普通列車で故郷へと帰るのであった。